京論壇2018公式ブログ

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北京セッション報告① 「競争と正義」分科会

こんにちは!

本日からは、北京セッション中の各分科会について、参加者から独自の視点で綴ってもらいます!

 

本日は、「競争と正義」分科会の石川玲くんからです!

 

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「とにかく主張する」

 

北京の地に降り立ち、真っ先に感じたことだ。

セキュリティーチェックで並んでいると前に割り込まれ、地下鉄で電車から降りようとすると乗車客らに押され負けて降りそびれ、レストランに至ってはカオスである。十数名の客がそれぞれ大声で従業員に何がしかを主張し、従業員もそれに負けず客に反応し、時には制止する。横断歩道では信号機は意味をなさず、車やバイクのクラクションが鳴り響き、自転車や歩行者も叫びながら間を縫うように、場合によっては車を止めさせて颯爽と道を渡る。

日本にいると社会で形成されたルールやマナーにより主張は抑制され、利害の調整が行われるが、ここでは各個人が主張をし、状況に応じてフレキシブルに利害の調整が行われる、とでも言えばよいであろうか。

 

 

さて、である。

 

そのような主張する文化の国において、主張が許されていない点があるのではないか、そう考えた。

政治的問題である。

こと日本にいると、メディア等の影響や社会制度の相違から、言論の自由が中国では制限され、政治的問題、すなわち人権問題、政府への不満、党主席への批判などについての主張は制限されているのではないかと感じる。

主張する文化と、主張の制限。

この対立のただ中にいる人々の実態を知りたい。こうした個人的な興味を持ち、北京大学へと足を運んだ。

 

 

自分が所属する「Competition and Social Justice -競争と社会正義-」分科会では、主に教育分野における競争について、社会正義の観点から議論を重ねた。

分科会の詳細については10月6日の最終報告に譲るとして、ここでは先に述べた個人的関心について視野を与えてくれた、いくつかのできごとについて紹介したい。

 

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ある日の食事の席のこと、東大生5人北京大生5人で「Cut the finger」というゲームをしていた。

自分が経験したことのあることをシェアし、同じような経験がない人は指を一つずつ失っていくというゲームであるが、ある人が「4カ国以上に行ったことがある」と話した。そこですかさずある北京大生が「台湾は含めていい?(笑)」と発言し、残りの北京大生全員が「台湾は省だから違う!(笑)」と言い、テーブルが笑いに包まれた。

特に高等教育を受けた若い中国人の中では、台湾を別個の国であると認識している人が多い。ジョーク、皮肉は歴史的に見ても主張が制限された環境における主張の手段としてよく用いられるが、そのような場面を北京滞在中何度も見かけた。

 

 

別のある日、日中韓プロトコル博物館という場所を訪問した。

そこで結婚観念、メディアなど30以上にわたるテーマについて、日中韓三ヶ国の状況を、それぞれ3ヶ国語で比較した展示物があったが、そのうちの一つに「汚職」とのテーマを見つけた。

そこで中国について書かれていたのは、以下のようであった。

 

「政府では汚職がはびこっているが、現在は大幅に改善されている」(中国語)

「政府では汚職がはびこっている」(日本語)

 

博物館を案内していただいた男性に尋ねると、政府による監視を切り抜けるために展示物の一部を修整する必要があり、その中でもできる限り伝えたいことを伝えられるように工夫をしている、とのことであった。

ネット上の規制をかいくぐって政治的主張をするため隠語を次々と生み出していくことはもはや常套手段となっていたりと、人間に与えられた賜物である知恵を、人々はフル活用している。

 

 

 

主張を促される文化、主張を制限されていながらもそれを乗り越える力。幼少期の頃からその中で生まれ育ち、「主張力」を鍛えられた中国人に対して、日本はビジネスや政治などの各分野で劣勢を強いられている。

ニュースなどを見ていて、漠然とそのような印象を持っている人もいるのではないだろうか。正直なところ、自分はその一人であった。

京論壇はとにかく議論、議論、議論だが、議論とはまさしく人が主張を重ね合う場である。そこで我々日本人は、はたして中国人相手にどこまで主張することができるのであろうか。一抹の不安を抱いて北京大学へ足を運んだ。

しかし、来る日も来る日も朝9時から夜9時まで議論を重ね、気づいたことがある。

 

我々も負けていない。

 

無論、議論とは勝ち負けの問題ではなく、そうあるべきでない。ここで言いたいのは、「主張力」において我々日本人も全く負けていないのである。

発言回数で偏りが生じたことはなかったし、議論中に価値観が対立した際には対等に理由と結論を述べてお互いに理解を見せ、方針について意見が割れた際も、等しく考えをぶつけ合ってベストなものを共につくろうと奮闘した。

価値観と論理。

自らの核として価値観を明確に持ち、論理という道具を用いれば、おのずと口は開き、発せられる主張は力を持つ。

値切り交渉が当たり前の中国と、(現在変わりつつあるものの)厳格な先輩後輩関係がよしとされる日本とで、主張文化に違いはあるが、主張すべき場ではそのような国民性によって優劣はなく、鍵となるのは個人がそれぞれの文化の中でどれだけ「考えて」生きてきて、個人レベル、集団レベルでの「自分」をどれだけ確立してきたかである。

 

もっと「考えて」生きよう、もっと「自分」について追求しよう。

この10日間を経て、そう決意した。

 

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…そんなことを考えながら羽田空港へと到着して帰途につき、京急線で降車客を押し分けて乗車しようとする自分に気づいた。

北京セッション実況中継

こんにちは!副代表の浦野です。

 

いよいよ北京セッションが始まりました。

緊張のオープニングセレモニーから始まり、次第に白熱していく議論を経て、その集大成たるプレゼンテーションへと繋がっていく7日間。

 

今回はその模様をできるだけ臨場感をもたせてお伝えしたいと思います。

 

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正しい競争とは何か?

 

「競争と正義」分科会はこの難題に答えようとしていた。

 

広大な北京大学キャンパスの東のはずれにある、第二教学楼5階。

 

西日の差す教室で、議長のイェンジュンが質問を投げかける。

 

−− So, who’s going to vote for “unfair”?

 

向かい合って座る10人のうち、奥に座る2人のみが手を挙げた。

 

しばらくの議論ののち、再びイェンジュンが尋ねる。

 

−− Who’s going to vote for “unfair” this time?

 

今度は半数を超える手が挙がった。

 

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…このセッションで行われていたのは、いわば思考実験である。

 

ある双子(AとB)がいて、Aは東京で育ち、Bは別の地方都市で育ったとする。

東京で育ったAは教育環境に恵まれ、志望していた大学に合格することができた。

一方Bは通っていた学校の教育水準が低いこともあってか、志望大学に進学することはできず、一年間の浪人をすることに決めた。

 

この競争はフェアだったか?という問いには、10人中2人のみが「フェアであった」と答えた。

 

ところが、ここで少し設定を変えてみるとどうだろう。

教育環境に恵まれたAは志望校に合格できず、BはAの届かなかった大学に合格することができたとする。

 

この競争については、10人中6人が「フェアであった」と答えた。

 

スタート地点は同じでありながら、結果によって競争がフェアになったりアンフェアになったりするのだろうか?

そもそもAとBの「頭の良さ」に差があったとき、それはアンフェアではないのか?

フェアな競争とは何か?

 

論点が論点を呼び、議論は21時半近くまで続いた。

 

翌日の議論は9時から。

分科会メンバーは朝食を買ってホテルへと引き揚げ、長時間の議論で疲れた身体と頭を休ませるのだった。

 

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この議論の行く末は、東京セッション後に出版する「最終報告書」にて報告したいと思います!

 

また、他分科会の様子についてもこの後ブログでお伝えするつもりなので、ご期待ください!

【コラム】日中の新卒採用事情

参加者コラムの2回目は、「サイバースペースへの統制」分科会のメンバー、邵鴻成くんです!

 

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初めまして、東京大学経済学部経営学科4年の邵鴻成と申します。京論壇ではサイバーレギュレーションという分科会に所属しています。

4年生ということで、つい最近まで就職活動をしていたのですが、実は日本の他に中国でも少し就活していました。そこで、両方での就活の経験者として(中国の方は本当にさわり程度ですが)、新卒採用における日中の違いについて少し説明できればと思います。もしかすると、このブログを読んでくださっている方の中には、将来中国で働きたいという方がいるかもしれないので、少しでも参考になれば幸いです。(ただ、現在中国では、外国人は2年以上の就労経験が無ければ労働ビザがもらえないので、残念ながら日本人が新卒で就職することは不可能です。)

 

第一に、新卒に求めるものが違います。中国では、新卒にも経験やスキルを求めます。北京大や清華大などの中国の上位校の学生は、日本のいわゆるワンデーやワンウィークの専ら採用目的のインターンシップではなく、企業の労働力として働く長期インターンシップの経験が複数ある人が多い印象です。

この理由としては、新興企業が多い中国企業において、新卒教育が整っているところが少なく、新卒に対しても即戦力が求められるからです。また、労働市場流動性が高く、転職が一般であるため、新卒の教育に投資するインセンティブが企業にないことも一つの理由です。そのため、実力と経験をつけるための長期インターンシップの経験は、中国での新卒就活において非常に重要です。ただ、この長期インターンシップの給与は、一日当たり100元から150元(だいたい2000円ほど)ほどで、提供する労働力や求められるものを考慮すると、やはり寂しいです。しかし、学生側がよりよい就職先を得るためには、インターンシップをやる必要があり、また企業側も安くて優秀な労働力が欲しいので、双方の要求が一致します。この構図は欧米企業と同じです。

 

第二に、新卒でもポジション採用です。中国企業には総合職はなく、自分の応募する職務があらかじめ決まっています。ここが「就社」といわれる日本の就活との違いで、学生は自分の過去のインターン経験や能力を参考にして、応募するポジションを選びます。そのため、入社後の仕事内容におけるミスマッチは日本と比べると少ないです。

また、そのようなポジションがいつ空くかは不明なので、人によっては大学卒業前に働きだす者もいれば、大学卒業後しばらく経ってから就職する人もいます。そのため、入社式や内定式はありません。これは、日本企業の新卒一括採用とは全く異なり、欧米企業と同じです。

 

 その他で、面白いと思ったところでは、もしかしたらこれは中国にいる外国人に限った話かもしれないですが、友達の紹介や所属するWeChatグループでシェアされた求人情報を頼りにインターンシップや仕事を得ることが少なくないです。例えば、僕は大学3年時に清華大学に留学していたのですが、その時に出会った留学生の多くは、上記の方法でインターンシップを確保していました。また、僕が応募して内定を頂いた中国企業もWechat経由で応募したものでした。そのため、中国は新卒であっても、人脈や自分が所属するコミュニティーの重要性は大きいと感じました。

 

さて、中国での新卒就職事情を簡単に見てきましたが、中国ではたとえ北京大生や清華大生でも実務経験がないと、一般的に良いと言われる企業に行くのは容易ではありません。

また、日本と違い新卒と中途の違いもなく、実力と経験がすべてであり、また転職も普通です。そういう点で、欧米での就活と同様の厳しさがありますが、その分入社時期を選ばないなどのフレキシビリティもあります。そう考えると、日本では有名大学を卒業さえすると大した実務経験がなくても良い企業に行きやすく、また特に現在は売り手市場でもあるので、日本の学生はとても恵まれているとつくづく感じるとともに、日本の労働市場の特異性が際立ちます。手厚い社内教育と長期的な雇用関係を前提とした新卒一括採用がいつまで続くのか、もしそれが終わるとしたら、日本ではどのような採用の形に移行するのか、といった点にも個人的に注目しています

 

以上が中国の新卒就活事情でした!お役に立てれば幸いです!

【コラム】日中の葛藤を経て

こんにちは!東京大学経済学部3年の孔 德湧です。京論壇では文化多様性の分科会に所属しています。

京論壇以外には、模擬国連という活動をしています。

 

僕は両親が中国人で、いわゆる華人2世と呼ばれる存在です。中国に出自がある一方で、僕自身は日本生まれ日本育ちであるため、中国は僕自身にとっては近いようで遠い存在でした。幼稚園の頃から小学校三年生にかけて中国の小学校に通っていた経験があるものの、日本に帰国して時間が経つに連れて、その頃の記憶はどんどん薄まり、そして僕の中にあった中国人としての意識もそれに連れてだんだんと日本人のものに変わりました。現在は日本人として日本社会に生きてるものの、自分の中にある中国文化的な部分は完全に消えたわけではなく、そしていつか「中国」に向き合わなくてはいけないという思いがどこか自分の中にありました。それが、京論壇に参加した一番おおもとの動機です。

 

短い間とはいえ、3年弱中国の小学校に通っていた僕は帰国当初、強い中国人意識を持っていました。そのため、帰国してから、文化・教育・メディアの報道など多くの面で違和感を覚えました。例えば、中国には「空気を読む」なんて文化はないですし、人前であくびをしてはいけないなんて言われたことがありませんでした。学校の教育に関しては、中国ではかつての戦争での日本の侵略が強調されるのに対し、日本ではそれに関して教えられることはほとんどない。メディアの報道をみると、例えば国際政治の報道になると中国では欧米や日本を批判することが多いのに対して、日本だと逆です。また、中国に対して人々が悪い印象を抱くような言説が多数あることも驚きでした。このような違いに小さい頃の僕はとても苦しみました。信じていたもの、誇りを持っていたものがこっちではことごとく否定される。それに対して、両親はやはりどこか僕に中国人らしくいてほしいという思いがあったらしく、このような悩みを相談しても「日本はこういうところが間違っている、こういうところがよくない」というようなことしか言いませんでした。

最初のうち、僕自身もこれをそのまま受け入れていましたが、いつからかこのままでは日本社会に溶け込めないという意識が生まれるようになりました。その後、徐々に日本の学校に馴染み、日本人の友達もたくさんできるようになりました。そして、たしか中学生くらいの頃だと思いますが、これからは日本人として生きていこうと決意しました。それ以降、僕にとって中国はあくまで外部の存在となり、中国人もあくまで外国人となりました。また、テレビやネットにある中国人に対する偏見を含んだ言説にもうなずけるようになりました。

ただ、これで僕自身の葛藤は終わりませんでした。自分に馴染みのある存在である「中国」を外部の存在としてとらえ、ときには否定することは果たして正しいのかということを考えるようになりました。同時に、こういう風に中国に悪い印象をもつことは、日中間にある問題の解決に全く繋がらないということにも気付きました。「中国」にどのように向き合うか、これはその後の自分の人生において重要なテーマとなりました。

 

そして、紆余曲折を経て、自分の中にあるこのテーマを考える上で、「他者の視点に立つ」こと、そして「自分自身を客観視する」ことがとても大切だということに気がつきました。

まず、「他者の視点に立つ」ということについて。例えば、中国人はなぜ日本に対して悪い印象をもつのでしょうか。おそらく歴史的な問題、領土問題など、様々な要因があると思います。これらの要因を踏まえた上で、「もし自分が中国人だとしたら、日本に対してどのような印象をもつだろうか?」ということを考えたときに、彼らの感情にも頷けるものがきっとあるだろうと思います。例えば、小さい頃に家族や学校の先生から昔の日本の侵略の話を聞かされたとき、多かれ少なかれ日本人に対して悪い印象を持ってしまうと思います。ここまで考えると、一部の中国人が日本に悪い印象をもつことに対して、多少は頷けるようになると思います。これ自体は別に日中問題の解決に直接つながるとは思いませんが、相手の立場に立って考えたとき、少なくとも相手を一方的に「悪」と捉えることはなくなると思います。このように相手の立場に立ち、一方的に「悪」と決めつけることをやめたときに、対話の可能性が開かれると思います。

 

同時に、自分の中にある感情を客観視することも重要です。外国人や外国文化に対して、警戒したり、よくない感情を抱くこと自体は誰にしもあることだと思います。重要なのは、自分がなぜそのような感情を抱くのかを冷静に考え、相手を一方的に排除しようとしないことです。

再度、「日本人はなぜ中国人に悪い印象を抱きがちなのか」ということを考えてみましょう。反日デモのイメージや中国人のマナーの悪さによることが多いと思います。そこから、自分の中にある中国人の悪いイメージが必ずしもすべての中国人に当てはまるわけではなく、より良い中国人との付き合い方を見出せるはずです。中国人に限らず、今後私たちが外国人(もしくは外国に出自をもつ日本人)と接する機会はどんどん増えるだろうし、自分の中にある感情の客観視はそういった人たちとの付き合い方を考える上でとても重要なことだと思います。同時に、この二つのことは日中の問題や、外国人との付き合い方だけでなく、広く人間関係や組織運営などにも当てはまる事柄だと感じています。他者とぶつかったとき、なぜ相手がそのように感じるのか、そしてなぜ自分はそのように感じるのか、冷静になって考えると解決の糸口がみつかると思います。

 

現在、私は文化多様性の分科会に所属しています。そこのメンバーは様々な出自を持っており、多様性がある中で、日々充実した議論ができていると感じています。京論壇を通して、北京大学の学生と互いの中にあるネガティブな感情も含めてしっかりと向き合い、充実した議論ができることを楽しみにしております。そして、この活動が少しでも日中の対話に寄与できるよう努力してまいりたいと思います。

【コラム】ピエロなあなた

今回の参加者コラムは、「競争と正義」分科会のメンバー、尾川達哉くんからです!

 

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ある夜更けのこと。ティーカップにいれたコーヒーをすする。テレビにうつる司会者の絶妙な突っ込みを聞いて思わず噴き出しそうになった時、ふと思った。「善人ってなんだろう。」

 

悪人の顔をした悪人ほど安心させてくれるものはないが、善人の顔をした悪人ほど恐ろしいものはない。テレビの向こうで頭を下げている人を見て、「わざわざ下げるなら、何でそんなことをするんだよ」と思う。たまには下げようともしない大人もいるにはいるが。最近は同じようなニュースをよく目にする。そしてその度に思う。加熱な報道。加熱な反応。そして、不自然なまでに憔悴しきった加害者。この世界には、裁かれない悪も存在するのか。

 

人は言うだろう。罪を犯した人間は例外で、自分は違うと。しかし、彼らは「普通」なのである。悪人が普通で、善人が例外なのだ。悪人は絶えずそこにいる。見えない場所の誰かを傷つけ、気づけば我らの星を泣かせている。だが、それでも人は悪を感じない。窓の外側の景色が汚れていることには気づいても、鏡を見ようとはしないからだ。

 

人間は生まれながらにして悪である。環境や教育によって理性は与えられ、それを矯正する。しかし、それは単なる覆いに過ぎない。悪という名の魔物が人間の中から消えることは永遠にないのだ。自らに巣くう悪を抑えこむために、我々には自我があり、社会には制度がある。殺人に刑法があり、愚昧な為政者のために九条があるように。しかし、いったんその均衡が崩れたら、歯車は元に戻らない。

そもそも悪や善というものは極めて漠然としたものだ。マルキ・ド・サドは「悪徳の栄え」で法律が善悪を決めるのだと書いたが、所詮それは形式以上の何物でもない。何が善で何が悪なのか、そしてそれを誰が決めるのか。今日では多くの者が戦争は悪だと答えるだろうが、明日になって偉い人間が「戦争は正義だ」といえば、戦争は善になるのだ。

特に我々日本人などという生き物は、空気という化け物に付き従うのが本分である。誰も思っていなくても空気様が勝手に選んだ道に盲目に付き従い、流されるだけの葦にすぎない。とりあえず善人のふりさえしておけば、悪人の汚名などを着せられずに済む。ここまで質の悪い生き物などは、もはや天然記念物である。かつておもてなしなどという言葉が日本人の心性を称えるものとしてもてはやされたが、それも昨今口に出せば笑われる、忖度などというものの兄弟にすぎないのだ。

 

「万人の万人に対する闘争」という言葉があるが、これほど人間の本性を暴いたものはない。『進撃の巨人』や『バトルロワイヤル』では極限状態に追い詰められた人間の心理が克明に描かれている。エレンは化け物扱いされ人間たちに殺されそうになり、藤原竜也はクラスメイトとのサバイバルゲームに身を投じた。

しかし、これはフィクションの世界に限ったことではない。かつてユダヤ人学者のフランクルは『夜と霧』にて強制収容所での過酷な体験をまとめたが、死の淵に追いやられる中で変わり果てて欲望をむき出しにした人間たちを見て「人間性の最高の価値は苦悩するところにおいて現れてくる」という言葉を残した。

そして今日、「万人の万人に対する闘争」は日常と化した。現実世界で善人の仮面を被った人間は、ネット世界で猟奇的な人間に変貌する。国という名の家をなくした人間たちは見えない壁にしがみつき、生を叫ぶ。そこに広がるのは、リヴァイアサンなき世界。かつてのフィクションは今日における現実なのか。

 

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人はピエロである。誰もがピエロのように操っては操られ生きている。「へいわ」という旗を振りかざしながら、踊りおどけている。足元にひびができているのにも気づかず。

歴史が繰り返すのではない。人間が本質において変わらないだけだ。人間とはたえず堕落する生き物なのである。だれもこれに抗うことはできない。それでもなお、これからの時代に希望の光を灯したければ、堕ちる道を正しく堕ち切ることが必要である。理性を捨て、強靭なる感性を身につけよ。聞くことのできないものが聞こえ、見えないものが見える感性を。さすれば、本当の善が得られよう。

法学部三年 尾川達哉

【コラム】モラトリアムの終わり

どうもこんにちは。今から中国でのご飯が楽しみで仕方がない東京大学文化一類二年笠川裕貴です。


流石は国土が東西南北に広がる中国。各地に特色ある料理があって、ガイドブックを通じて深夜の僕の空きっ腹を痛めつけてきます。
(釈明しておくと、北京での議論をサボってご飯を食べようとかではなく、その後別途個人で行く中国旅行のことを指しています。サボらずちゃんと全力で議論します。)

...そろそろ本文に入りましょう。

 

「どうして京論壇に入ろうと思ったのか?」


知人に聞かれて、面接での答えを口に出す。「かつて京論壇に参加した先輩から話を聞いて面白そうだと思ったからだ」と。
雑談の話題は移ろう。次へ。またその次へ。
話題に触れるだけで、掘り下げることは雑談の仕事ではない。


しかし、ここで一歩止まってちょっと注意すると、僕の答えが必ずしも答えになっていないことに気付ける。
「面白そうだ」というだけで、はるばる北京へ行き、英語での議論に挑む気になるのか、と。


勿論、それだけで飛び込んでいけるフットワークの軽い人もいる。
しかし、僕はそうじゃない。怠惰に沈んだ大学生にとっては、北京も英語での議論も遠い。

 

では何故だ、と。そう聞かれたならば。
これまで、他人との対話を避けてきた。苦手だった。
苦手意識が先か、逃避が先か。どちらか分からないが、なんにせよ、中学、高校、大学と同質性の高い共同体にいて、その上、慣れ親しんだ友人らの輪から一歩を踏み出すことをしなかった。


冬の朝に布団から出られないのと同じかもしれない。
でも、それでも許される猶予期間はそろそろ終わる。
社会に出て、生計を立てなければならない。他者の意見に耳を傾け、他者の立場を慮り、必要があれば意見の摺り合わせや説得を行う必要があるだろうと考えた。
大学入学後一年経った当時の問題意識が、僕の背中を押した。

 

申し込んでも、選考で落ちるかもしれない。
でも、自分の薄弱な意志のみを頼みとして新たなことに挑戦し、継続するのは難しい。
中学高校での経験で、自分の決心が泥船であることも分かっていた。
僕には、冬の朝でも布団から這い出る理由をくれる始業時刻とアラームとが必要だった。
受験予備校が栄えた理由の一つは、受験生がこういった行動する短期的な理由とペースメーカーを与えるからではないかとも思う。

 

京論壇の選考の通過と無事第一志望の「サイバー空間の統制」分科会に入れていただける旨、メールで連絡いただいた時、どんなことを考えていたかはもう覚えていないが、当時のメモ帳にはテーマについての調べ事の記録が残っていたから、少なくともただ京論壇に入って突っ立っていればお望みのものが手に入るなどという甘えたことは考えていなかったはずだ。


大会でも受験でも、参加せずに成果を得ることはできないが、参加しても目当ての景品は手に入らないこともある。
参加は必要条件であって、十分条件ではない。


それでも、敗戦の苦い経験であっても、きっと自らの糧になると信じて、準備を進めている。

【コラム】社会と想像力

本日からは、分科会のメンバーに自由にエッセイを書いてもらいます!

トップバッターは競争と正義分科会のメンバー、中島礼朗くん(文科2類2年)です!

 

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最近自分のなかで大事にしているものの話をしようかなと思います。想像力、です。

想像力を失ったらおしまいだと思うんです。

 

たとえば何かを人に伝えるとき。僕が発した日本語は僕の中ではそのコンテンツの伝達に最適化されているつもりでも、上手く伝わらないことがある。ここで必要なのは、相手がどうその言葉を受け取るかを想像して、相手の基準の上で最適化することです。これは僕がサークルでやっている英語ディベートを通して学んだことなのですがとても大事。

 

これって最近話題にのぼることの多いセクハラ・パワハラ問題にも言えると思います。相手がそれをハラスメントだと感じたのならばそれはセクハラであったり、パワハラであったりするわけです。結局傷つく人がいたらそれは悲しい出来事だし防ぎたい、そういうものだと思います。やっぱり想像力が大事ですよね、相手がこの言葉・行為をどう感じるかを想像していないといけないわけです。

そうした悲しい出来事を減らすためにたくさんの運動が興っています。女性蔑視的な発言を強く避難するもの。アルハラを撲滅する運動。パワハラ撲滅運動。SNSやメディアで見ない日はありません。誰かが誰かにハラスメントをされたと叫び、不特定多数の正義の見方が寄ってたかって悪を糾弾する。

このような光景は、弱者が弱者であるがゆえにその苦しみを叫ぶことができず、悪が覆い隠されていたかつての光景よりはある面では美しいものなのでしょう。誰もが発信者になれる時代だからこそみんなが助けを求めることができ、みなが正義の味方になれる。美しい。

 

しかし、ここで絶対に忘れてはならないのは、人はみな違う、ということだと思います。人それぞれに感性は違い、正義も異なる。究極に言えば絶対的な悪も善もないといえるかもしれない。世界中みな違う場所で生まれ、違う環境、違う規範のもとで育ってきたのだから当然でしょう。当事者たちの声など無視されて正義の味方が現れる、なんてことは起こってはならないはずなのです。

でもたくさんそんなことが起きている。それが正義の味方たちにとっては正義だし、権利だったりするから。社会って難しいと思うわけです。こんなんどうしようもねえよ、みたいな。

 

さてどうしましょう。

 

少なくとも周りの人に笑顔でいてほしい。と僕は考えました。

 

だから僕は想像力を大事にすると決心したわけです。まだまだ未熟すぎる想像力だけども、たくさん考えて、想像して生きようともがいています。

 

京論壇に入った理由の一つにはそういう考えがありました。北京大学の方と徹底的に議論しあう。価値観をぶつけ合い、互いの思考を深く知る。楽しそう、成長しそう。そういうわけで今年の夏は京論壇にお世話になります。

 

ここまでだと全然僕が所属している”競争と正義”分科会と関係ないブログ記事になってしまいます。

少しだけ分科会のテーマの話をしようと思います。

 

今回分科会で扱う”競争”は、先程の話と同様の「まじかよ社会、こんな社会嫌になっちまうわ」路線の競争が主になります。学歴競争、資本主義のなかでの会社同士の競争などなど。望んでもないのに放り込まれて、敗者が生まれて、悲しむ人が生まれる。でもその一方で、正当に勝利を得て、自らの権利を享受する人もいる。しかたないのでしょう、社会は弱者だけのためのものではなく、でももちろん強者だけのものでもない。みんなのためのものであるから。ここで議論になるのが、どこまで競争は許容されるのか。何が正当な競争であり、何が皆の共有する”ボーダーライン”なのか。この”ボーダーライン”を定めるのが今回は正義に関する議論でしょう。

 

想像力が要りそうですね。なにしろ絶対的な正義なんてないかもしれなくて、ボーダーラインなんて引けっこないかもしれないですし。

思いっきり考えぬいて、思いっきり想像力を働かせたいと思います。

 

最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。

 

東京大学 前期教養学部文科2類 中島 礼朗