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北京セッション報告① 「競争と正義」分科会

こんにちは!

本日からは、北京セッション中の各分科会について、参加者から独自の視点で綴ってもらいます!

 

本日は、「競争と正義」分科会の石川玲くんからです!

 

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「とにかく主張する」

 

北京の地に降り立ち、真っ先に感じたことだ。

セキュリティーチェックで並んでいると前に割り込まれ、地下鉄で電車から降りようとすると乗車客らに押され負けて降りそびれ、レストランに至ってはカオスである。十数名の客がそれぞれ大声で従業員に何がしかを主張し、従業員もそれに負けず客に反応し、時には制止する。横断歩道では信号機は意味をなさず、車やバイクのクラクションが鳴り響き、自転車や歩行者も叫びながら間を縫うように、場合によっては車を止めさせて颯爽と道を渡る。

日本にいると社会で形成されたルールやマナーにより主張は抑制され、利害の調整が行われるが、ここでは各個人が主張をし、状況に応じてフレキシブルに利害の調整が行われる、とでも言えばよいであろうか。

 

 

さて、である。

 

そのような主張する文化の国において、主張が許されていない点があるのではないか、そう考えた。

政治的問題である。

こと日本にいると、メディア等の影響や社会制度の相違から、言論の自由が中国では制限され、政治的問題、すなわち人権問題、政府への不満、党主席への批判などについての主張は制限されているのではないかと感じる。

主張する文化と、主張の制限。

この対立のただ中にいる人々の実態を知りたい。こうした個人的な興味を持ち、北京大学へと足を運んだ。

 

 

自分が所属する「Competition and Social Justice -競争と社会正義-」分科会では、主に教育分野における競争について、社会正義の観点から議論を重ねた。

分科会の詳細については10月6日の最終報告に譲るとして、ここでは先に述べた個人的関心について視野を与えてくれた、いくつかのできごとについて紹介したい。

 

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ある日の食事の席のこと、東大生5人北京大生5人で「Cut the finger」というゲームをしていた。

自分が経験したことのあることをシェアし、同じような経験がない人は指を一つずつ失っていくというゲームであるが、ある人が「4カ国以上に行ったことがある」と話した。そこですかさずある北京大生が「台湾は含めていい?(笑)」と発言し、残りの北京大生全員が「台湾は省だから違う!(笑)」と言い、テーブルが笑いに包まれた。

特に高等教育を受けた若い中国人の中では、台湾を別個の国であると認識している人が多い。ジョーク、皮肉は歴史的に見ても主張が制限された環境における主張の手段としてよく用いられるが、そのような場面を北京滞在中何度も見かけた。

 

 

別のある日、日中韓プロトコル博物館という場所を訪問した。

そこで結婚観念、メディアなど30以上にわたるテーマについて、日中韓三ヶ国の状況を、それぞれ3ヶ国語で比較した展示物があったが、そのうちの一つに「汚職」とのテーマを見つけた。

そこで中国について書かれていたのは、以下のようであった。

 

「政府では汚職がはびこっているが、現在は大幅に改善されている」(中国語)

「政府では汚職がはびこっている」(日本語)

 

博物館を案内していただいた男性に尋ねると、政府による監視を切り抜けるために展示物の一部を修整する必要があり、その中でもできる限り伝えたいことを伝えられるように工夫をしている、とのことであった。

ネット上の規制をかいくぐって政治的主張をするため隠語を次々と生み出していくことはもはや常套手段となっていたりと、人間に与えられた賜物である知恵を、人々はフル活用している。

 

 

 

主張を促される文化、主張を制限されていながらもそれを乗り越える力。幼少期の頃からその中で生まれ育ち、「主張力」を鍛えられた中国人に対して、日本はビジネスや政治などの各分野で劣勢を強いられている。

ニュースなどを見ていて、漠然とそのような印象を持っている人もいるのではないだろうか。正直なところ、自分はその一人であった。

京論壇はとにかく議論、議論、議論だが、議論とはまさしく人が主張を重ね合う場である。そこで我々日本人は、はたして中国人相手にどこまで主張することができるのであろうか。一抹の不安を抱いて北京大学へ足を運んだ。

しかし、来る日も来る日も朝9時から夜9時まで議論を重ね、気づいたことがある。

 

我々も負けていない。

 

無論、議論とは勝ち負けの問題ではなく、そうあるべきでない。ここで言いたいのは、「主張力」において我々日本人も全く負けていないのである。

発言回数で偏りが生じたことはなかったし、議論中に価値観が対立した際には対等に理由と結論を述べてお互いに理解を見せ、方針について意見が割れた際も、等しく考えをぶつけ合ってベストなものを共につくろうと奮闘した。

価値観と論理。

自らの核として価値観を明確に持ち、論理という道具を用いれば、おのずと口は開き、発せられる主張は力を持つ。

値切り交渉が当たり前の中国と、(現在変わりつつあるものの)厳格な先輩後輩関係がよしとされる日本とで、主張文化に違いはあるが、主張すべき場ではそのような国民性によって優劣はなく、鍵となるのは個人がそれぞれの文化の中でどれだけ「考えて」生きてきて、個人レベル、集団レベルでの「自分」をどれだけ確立してきたかである。

 

もっと「考えて」生きよう、もっと「自分」について追求しよう。

この10日間を経て、そう決意した。

 

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…そんなことを考えながら羽田空港へと到着して帰途につき、京急線で降車客を押し分けて乗車しようとする自分に気づいた。