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【コラム】ピエロなあなた

今回の参加者コラムは、「競争と正義」分科会のメンバー、尾川達哉くんからです!

 

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ある夜更けのこと。ティーカップにいれたコーヒーをすする。テレビにうつる司会者の絶妙な突っ込みを聞いて思わず噴き出しそうになった時、ふと思った。「善人ってなんだろう。」

 

悪人の顔をした悪人ほど安心させてくれるものはないが、善人の顔をした悪人ほど恐ろしいものはない。テレビの向こうで頭を下げている人を見て、「わざわざ下げるなら、何でそんなことをするんだよ」と思う。たまには下げようともしない大人もいるにはいるが。最近は同じようなニュースをよく目にする。そしてその度に思う。加熱な報道。加熱な反応。そして、不自然なまでに憔悴しきった加害者。この世界には、裁かれない悪も存在するのか。

 

人は言うだろう。罪を犯した人間は例外で、自分は違うと。しかし、彼らは「普通」なのである。悪人が普通で、善人が例外なのだ。悪人は絶えずそこにいる。見えない場所の誰かを傷つけ、気づけば我らの星を泣かせている。だが、それでも人は悪を感じない。窓の外側の景色が汚れていることには気づいても、鏡を見ようとはしないからだ。

 

人間は生まれながらにして悪である。環境や教育によって理性は与えられ、それを矯正する。しかし、それは単なる覆いに過ぎない。悪という名の魔物が人間の中から消えることは永遠にないのだ。自らに巣くう悪を抑えこむために、我々には自我があり、社会には制度がある。殺人に刑法があり、愚昧な為政者のために九条があるように。しかし、いったんその均衡が崩れたら、歯車は元に戻らない。

そもそも悪や善というものは極めて漠然としたものだ。マルキ・ド・サドは「悪徳の栄え」で法律が善悪を決めるのだと書いたが、所詮それは形式以上の何物でもない。何が善で何が悪なのか、そしてそれを誰が決めるのか。今日では多くの者が戦争は悪だと答えるだろうが、明日になって偉い人間が「戦争は正義だ」といえば、戦争は善になるのだ。

特に我々日本人などという生き物は、空気という化け物に付き従うのが本分である。誰も思っていなくても空気様が勝手に選んだ道に盲目に付き従い、流されるだけの葦にすぎない。とりあえず善人のふりさえしておけば、悪人の汚名などを着せられずに済む。ここまで質の悪い生き物などは、もはや天然記念物である。かつておもてなしなどという言葉が日本人の心性を称えるものとしてもてはやされたが、それも昨今口に出せば笑われる、忖度などというものの兄弟にすぎないのだ。

 

「万人の万人に対する闘争」という言葉があるが、これほど人間の本性を暴いたものはない。『進撃の巨人』や『バトルロワイヤル』では極限状態に追い詰められた人間の心理が克明に描かれている。エレンは化け物扱いされ人間たちに殺されそうになり、藤原竜也はクラスメイトとのサバイバルゲームに身を投じた。

しかし、これはフィクションの世界に限ったことではない。かつてユダヤ人学者のフランクルは『夜と霧』にて強制収容所での過酷な体験をまとめたが、死の淵に追いやられる中で変わり果てて欲望をむき出しにした人間たちを見て「人間性の最高の価値は苦悩するところにおいて現れてくる」という言葉を残した。

そして今日、「万人の万人に対する闘争」は日常と化した。現実世界で善人の仮面を被った人間は、ネット世界で猟奇的な人間に変貌する。国という名の家をなくした人間たちは見えない壁にしがみつき、生を叫ぶ。そこに広がるのは、リヴァイアサンなき世界。かつてのフィクションは今日における現実なのか。

 

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人はピエロである。誰もがピエロのように操っては操られ生きている。「へいわ」という旗を振りかざしながら、踊りおどけている。足元にひびができているのにも気づかず。

歴史が繰り返すのではない。人間が本質において変わらないだけだ。人間とはたえず堕落する生き物なのである。だれもこれに抗うことはできない。それでもなお、これからの時代に希望の光を灯したければ、堕ちる道を正しく堕ち切ることが必要である。理性を捨て、強靭なる感性を身につけよ。聞くことのできないものが聞こえ、見えないものが見える感性を。さすれば、本当の善が得られよう。

法学部三年 尾川達哉